< 撮影機材 Hasselblad 907X 100C Macro-Elmar-M 90mm f4 >
五街道の一つ日光街道は江戸日本橋から日光坊中(日光東照宮)を結ぶ街道ですが、この街道筋から北に、日光坊中の二つ手前の今市宿を起点として、鶴ヶ城のある会津若松へ向かう街道を、会津西街道(別称:下野街道)と言います。
初代会津藩主として会津松平家の祖となった、保科正之によって整備された街道です。
保科正之は徳川秀忠の庶子として生まれましたが、三代将軍家光のの異母弟でありながらその出生は秘密とされ、表向きは信濃国高遠藩主保科正光の子として養育されました。
後に偶然にも正之の存在を知った家光は、将軍家の弟として重く取り立て、それに感銘した正之は「会津家訓十五箇条」を定めたそうです。
その第一条には「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、もし藩主として将軍家に二心を抱くことがあればそれは我が子孫には非ず、家臣は決して従ってはならない。」と書かれています。
以降、藩主・藩士はともにこれを忠実に守り、幕末、最後の藩主となった松平容保は、この遺訓を固守して、薩長軍を中心とする官軍と戦い抜きました。
会津西街道を今市宿から辿って、若松城下に入るすぐ手前、氷玉峠と大内峠を目前にした場所に、大内宿という宿場町があります。
小さな宿場町ですが、雪深く厳しい峠道に差し掛かる前に、またはやっと超えて来て、街道を辿る旅人はこの場所に足を留めて疲れを癒したのでしょう。
現在も400年前の建物が保存され、ひっそりとした山奥に昔の宿場の面影を残しています。
雪に埋もれながらも、何故かほっこりと暖かみのある佇まいは、人の心を温めてくれる優しい宿場町です。