
< 撮影機材 Hasselblad 907X Hasselblad XCD 135mm f2.8 >
私の母は本郷・駒込で生まれているのだけれど、
小学生にになる頃には日本は太平洋戦争の只中で、空襲の怖れが日に日に濃くなっていた。
東京で学童疎開の話が出た時、祖父は二人の幼い娘達を親子離れ離れで送り出すのが忍びなくて、
駒込の家を畳んで一家で千葉に疎開したのだそうだ。
千葉県は現在では首都圏だから、疎開するには近すぎる気が私はしたが、
当時としては十分に田舎だったようで、東京で事業をしていた祖父にすると、
仕事にも通えて、家族の安全も図れる土地であったらしい。
戦争が終わってからも、焼け野原になった東京に娘達を戻せなくて、祖父はそのまましばらく千葉に留まり、
母は結局、高校卒業まで子供時代のほとんどを千葉で過ごすことになった。
その後、疎開地だった千葉を母が訪れる機会はほとんどなかったようだが、
最近懐かしそうに疎開先の話をするので、思い立って母と二人、出かけたみようということになった。
戦後80年近く経って、今はどの程度当時の面影が残っているかもわからず、記憶が頼りの道程だった。
場所は、小湊鉄道の上総久保というあたり。
訪れてみたら、小湊鉄道は単線で、上総久保の駅は無人駅だったし、
今でも過去に取り残されたような、静かな農村だった。
地図を見ながら、古い鎮守様や小さなため池を廻って、何十年も前の母の記憶を辿った。
通っていた小学校は廃校になってしまって、跡地は今風のグランピングリゾートに変わっていたし、
高校も統合で移転してしまっていた。
けれど、学校の近くにあった公園や、夏祭りに訪れた神社は健在で、
昔の面影を少しだけれど留めていたので、
母は、何十年かの年月を経て様変わりした風景の中に、記憶の風景を重ねているようだった。
ふと思い出しては母が語る昔の様子を聞きながら
記憶の場所と今の風景がどんな風にリンクしているのだろうか?と、
母の心中を想像しつつ一緒に歩いていたので、
私もつられて懐かしいような気持ちになって、なんだか楽しかった。
3月の初めだからまだ寒いかなと思って出かけたのに、その日は5月みたいに暖かい日差しに包まれて、
桜にはまだ早かったけれど、菜の花の咲き始めた田圃の道を気持ちよく散策できたのも嬉しかったし、
立ち寄ったお蕎麦屋さんに、たまたま母の小学校の後輩の女性がいらしたというハプニングもあって、
思い出話をしているうちに共通の知人の名前が飛び出して、びっくりしたり懐かしかったり、
おかげで母がすっかり記憶の底にしまい込んでいた色々な事が、弾けるように浮かび上がったようだった。
本当に奇跡のように不思議な一日だった。
写真は、その日に宿をとった内房のホテルから見た、夜明けのの月。
内房だから日の出は見えなくて、東京湾の向こうに三浦半島の剣崎あたりがぼんやりと霞んでいる。
その西の空がほんのりと桃色に染まる頃、月が沈もうとしていた。
あぁ、昨日は満月だったんだな・・とその時気が付いて、
前の日に出会ったいろいろなご縁は、お月様が導いくれたような
そんな風な思いがふっとよぎった。
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